
はじめに
道を譲っても当たり前のように通り過ぎる人。エレベーターで、誰かが開ボタンを押して待っていることを、特に意識する様子もなく出入りしていく人。
そんな場面に出会うたび、ずっと言いようのないモヤモヤを抱えてきた。
最近、「“必要以上に、自分ばかりが気を遣う必要はないのかもしれない”」と思う出来事が立て続けに起きた。
道を譲っても、“当然”みたいに通り過ぎていく人たち
例えば雨の日の狭い通路って、お互いに少し傘を傾けたりしながら通らないと普通にぶつかるし、自然と少しずつ気を遣いながら通るものだと思っていた。
けれど、中にはこちらが避ける前提みたいに、傘を傾けないうえに、通路の3分の2ほどを使って進んでくる人もいる。
こちら側だけが大きく傘を傾け、構造物に傘をぶつけながら歩くことになったり、時には立ち止まったりしながら通ることになることも少なくはない。
そんなことが続くたびに、「(なんで私ばっかり避けてるんだろう。)」と、少しずつ馬鹿らしさが積もっていた。
特にしんどいのが、大人数の集団に譲った時だ。
集団になると、なぜか急に、「“譲られて当然”」みたいな空気になることがある。
こちらが待っていることにも、こちらが足を止めていることにも気づかないまま、ぞろぞろ通り過ぎていく。集団だと、その“当然感”が延々続く。人数がいる分、こちらだけの待ち時間もどんどん伸びていく。一人なら数秒で終わることでも、こちらが譲っていることに誰も気づかないまま、当然みたいに通り過ぎられ続けると、自分だけがその場の背景みたいになった気がして、急に虚しくなる。
そしてつい最近、決定的な出来事が起きた。
なにかのイベントがあるのか人が滞留していて、通路が片側しか通れないような状況のなか、前方に3人組が見えたので、こちらが立ち止まって先に通そうとしたときのこと。
まるで、こちらが待つ側で当然みたいな空気のまま、そのまま通り過ぎていく3人組。
しかも、2人目には荷物をぶつけられたのに、「すみません」もない。
その瞬間、急に「あ、もういいや」と思ってしまった。さすがに馬鹿らしくなって、こちらが立ち止まり続けるのをやめ、間を縫うように進んだ。
さらにそのすぐあと、コンビニ前でも混雑していて、通路が狭くなっている状況で、出てくる人に気付いたので待っていたら、そのまま目の前で立ち話が始まってしまった。
「(いや、今ここ通れないんだけど。)」
さすがにイラッとして、そのままぐいっと通った。生理で身体がつらくイライラしていたおかげか、ちょっと強気になれていたのかもしれない🧙♀️笑
生理がしんどかったおかげで、普段なら飲み込んでいた違和感に、「いや、これ別に我慢しなくてよくない?」と気づけた。
モヤモヤを抱えたまま、答えを探すようにネットの海へ
正直にいうと、それまでは腹が立つというより、「なんかモヤモヤするな」で流していた。
でも、こういうことが立て続けに起きた時、ふと、「(なんで毎回、こちらばかりが気を遣っているのだろう。)」と思ってしまった。
そして、「(なんで私は毎回、こうやって自分から消耗しにいってるんだろう。)」とも思った。
こんなモヤモヤとイライラをずっと引きずりたくなくて、共感を求めて、ネットの海に潜る。

譲るのを当然みたいな顔されると、ちょっと腹立つ。

分かる。そういう人に限って、自分が同じことされたら絶対イラつくと思う。

『どうぞ』って譲ってもらったら、そこは『ありがとう』じゃないの?譲らない選択肢だってあるのに、わざわざ譲ってくれたんだから。
という意見に「ああ、自分だけじゃなかったんだ」とほっとする。
その一方で、

なぜお礼をしないのか。 「私が譲ってやった!」という優越感があるからそんなことが気になるのではないでしょうか。
お礼=ありがたいと思うからするものです。ありがたいと感じなければしません。お礼をしないのは「譲ってもらってありがたい」と感じていないからです。

親切の押し売りやめてください。

やりたくてやったんでしょ?お礼されないくらいでイラつくの、さすがに心狭すぎません?
まるで、“気遣った”という事実はどうでもよくて、「感謝されなかったことを気にした側」の人間性を問題視して断罪するような反対意見も目にする。ネットでは、そういった声のほうが目に入りやすいこともある。
そしておもしろいことに、

自分が相手に配慮した場面でも、“ありがとう”が返ってこなくても気になりません。見返りを前提にしていないので。
とわざわざ言いに来る人もいる。
本当に気にならないなら、気にならない話題に入り込んできて、「自分は配慮する側の人間だ」と示したうえで、「でも私は気になりませんけどね」と、相手を下げるような言葉を言いに来るだろうか。
「二度と会わない他人に」という言葉がくれた、気づき

「二度と会わない他人に、そこまで親切にする必要ってあるのだろうか」という言葉を偶然どこかで見かけた時、たしかに、と思った。誰にでも必要以上に気を遣いすぎていたのかもしれない、と気付いた。
それまでの私は、モヤモヤしても、「でも自分が気にしすぎなんだろうな」で終わらせていた。
譲ること自体が嫌なわけじゃない。
相手もこちらの存在を認識している感じがある時は、嫌な気持ちにはならない。
私が誰かに譲ってもらった時は、自然と会釈や「ありがとう」が出る。そういう感覚があるからこそ、何事もなかったみたいに通り過ぎられる瞬間に、引っかかりが残るのだと思う。
ほんの数秒なのに、“こちらが止まるのが当然だったみたいに”、“こちらが気を遣ったことを、最初からなかったみたいに”通り過ぎられる。
それは、単に感謝されたいからじゃなくて、こちらの気遣いも、時間も、存在も、まるでそこに最初からなかったかのようにスルーされ、「自分という存在そのものが雑に扱われた」と感じることへのやりきれなさだったのかもしれない。
さいごに
「どうぞ〜」と声をかけてしまうくらいのほうがいい、という意見も見かけて、なるほどなと思った。
仕事でも、「黙ってやること」と、「なかったことになること」は違う、とよく言われる。
謙虚でいることと、自分の気遣いや労力まで、存在しなかったことにしてしまうことは、たしかに別なのかもしれない。
ただ、毎回そんなふうに気の利いた動きができるわけでもない。
少なくとも私は、「どうぞ〜」と自然に言えるタイプではないので、最近は、こちらが譲る側として待機するより、スッと先に行ってしまったほうが、いいのではと気づいた。
自分は、譲ってもらったら「ありがとう」が言える人間だ。だから、こちらが先に行ったとしても、相手を嫌な気持ちにはさせない。
必要以上にやらないとは決めつつも、優しくあれる人間でありたい。
でも、自分を消耗するのはやめる。
そして、自分がしてもらった気遣いには、気づける人でありたいと思う。
なにより相手の気遣いを、ちゃんと存在していたものとして扱える人でありたいですね。
以上、やられたんこぶーたのオフはなにする?心の処方箋#3でした。
また次回のお話でお会いできたらうれしいです。


